言い訳

さて、何で私ごときがgettextやemacs等の著名なGNUソフトウェアのマニュアルなぞ訳して公開できるんでしょうか?ライセンス的に無問題とはいえ、そもそもこーゆーメジャーなソフトウェアのマニュアルは大学の教授先生著名な開発者先生などが翻訳・公開すべきではないのか?

ごもっとも。私も( ゚д゚ )彡そう!思ってました。そのような先生方が翻訳してくださった知識(JFJM)に助けられてBSDやLinuxを学ばせて頂きました。

しかし、この状況は2000年を過ぎる頃から変わっていきます。インターネット上には日本語による種々の個人DIY情報がどんどんアップされ、先生方による新たな翻訳が提供されなくなっていったのです。

当時の私はそれに気づくことなく、日々古くなっていく翻訳情報とDIY情報で生きていました。

しかし、既存の翻訳は年月の経過とともに劣化度を増していき、遂には「腐った情報」と揶揄されるまで劣化した既存翻訳が生み出される状況が生じ、その度合いは確実に右肩上がりと言えます。既存情報を翻訳された先生方は、もう翻訳しないのでしょうか?モチベーションを喪失してしまったのか?そもそも既存情報を翻訳した動機は何だったんだろうか?

そこで、おこがましくも自分がその先生方だったとして考えてみました。
まあ自分は未だ工学化されていないような技術を研究したり、未だソフトウェアとして提供されていないソフトを開発する立場にある訳なのだが(←妄想ですよ)、ぶっちゃけ英語情報を日本語に置き換えるなんてことじゃ自分に課せられた期待・責務を到底満足できません(だって日本人は義務教育で英語学んでるんだから)。じゃあそもそも何で翻訳なんてしたのか?それは使命を感じたから。自分は接しているけど、世間一般には知られていない一大ムーブメントを周知するのが、日本の技術・知識分野にたいする向上、生き残りに貢献する、と考えたから

...実際の所なんて判りません。けれども英語情報を単に日本語に訳すなんてことは、確かに先生方の知識・技術が必須とは言えません(現にそれを行っている私が断言できます)。思えば、先人が翻訳を行っていた時代(って言うと大昔みたいだけど、この分野は特にDog yearですからね)は翻訳を「し続ける」という行為自体、大変なことだったでしょう。私が新版を翻訳させてもらったとき参考にさせて頂いた旧版翻訳(たとえばemacs21のマニュアルのヘッダーコメント)を眺めるたび、「元文書の更新差分を派生文書の更新に反映させる術が無い時代、これらの更新を行うのはとんでもない作業だったろーなあ」と思います。

しかし翻訳への元文書バージョンアップ反映に対応したgettext、およびgettextのファイルフォーマットに対応した翻訳対象リソース抽出ツールpo4aの登場により、元文書のバージョンアップに伴う翻訳の更新は格段に容易になりました。以前のように「捨てることをあらかじめ予定しておけ。どうせいやでも捨てることになるんだから」という心構えで数百頁におよぶ英文を日本語に置き換えるという試練に立ち向かう必要はありません。

私が翻訳した文書が8割正しいとしましょうか(自分で言うのも何ですが、謙遜した値です)。けれども翻訳済みのPOファイル(gettextが使用する翻訳メモリーのファイルフォーマット)さえあれば、修正版を作るのも、それをバージョンアップするのも、以前に比べればとんでもなく、2度言いますがとんでもなく容易なのです。

まあ、私は作文とか全然得意ではなく、故にこの言い訳もまともな結を提供することなく終焉を迎えるのですが、以上の考え・思い・妄想が、私なんぞがでかい顔して翻訳文書を公開できる理由です。おわり

ayatakesi